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新・デジタリアンの散歩道

デジタリアンが取材したデジタルなニュースをお届けしています。

昭和11(1936)年  二・二六事件 大阪では11月にBK新局舎完成し本格的なラジオ時代へ

◆大阪に拠点を置いた家電業界の業界紙『ラヂオ公論』の創刊前年の1925(大正14)年6月、大阪でラジオ放送が始まっている。

 大阪放送局「JOBK」が仮放送所として設けたのは三越百貨店の屋上だった。今のNHK大阪放送局がある大阪市中央区(当時は東区)馬場町に新局舎が建ったのは昭和11年で、11月21日には関係者に披露された、と『ラヂオ公論』は報じている。

 大阪放送局は、わずか7カ月で三越屋上から上本町九丁目(上九)の新局舎に移転している。
 この前年、逓信省はラジオ放送の国家統制を計画して、社団法人東京・大阪・名古屋放送局解散して、社団法人日本放送協会を設立している。同時に海外放送もこの年から始ている。

 それによって大阪放送局は社団法人日本放送協会関西支部となったわけで、一般に「大阪中央放送局」(JOBK)と呼ばれるようになったのは、それ以降である。上九の新局舎は、約300坪の木造でスタジオもなく当初から手狭だった。
 それを解消するために建てられたのが、昭和11年に馬場町に完成した新局舎なのだ。

逓相が臨席して落成式

 新局舎(BK放送会館)は昭和9年2月に着工され、約200万円の工費が投じられ完成している。敷地面積1000坪で、延べ床面積は約3000坪だった。建物は地下1階、地上6階建てで、3階に局長室があったほか、最も大きな第1スタジオから第10スタジオまで10室を完備した。

 11年11月25日付けの『ラヂオ公論』には、「落成式は21日午前10時半から頼母木逓相、安井大阪府知事、安宅大阪商工会議所会頭列席の下に京阪神の名士・放送関係者700余名を招いて盛大に挙行された」とある。

 ラジオ放送は、大正12年の関東大震災を教訓に、的確でスピーディーな情報を伝達する手段として検討が始まっていた。

 大正14年、東京よりも3カ月遅れで大阪でラジオ放送が開始された時、聴取料は1カ月1円であっで、放送初日の試聴者数は8000人だったという。
 当初は民営でスタートするはずだったラジオ放送だが、逓信省の方針転換で社団法人による運営が決定された。それまで放送の主導権を握ろうとして、激しい競争を繰り返していた朝日新聞社と毎日新聞社にとっては、気が抜けた形だった。

 毎日新聞社は大正13年4月から、堂島の本社5階に放送所を設置、三越、大丸、十合(そごう)、高島屋に授信所を設けて実験放送を行っていただけに、落胆は大きかったようだ。しかし、その後しばらく両社は、ニュースや番組を供給することでラジオ放送にかかわり続けていた。
 時代は変って平成7年の阪神淡路大震災地震は、新しい情報伝達手段としてインターネットをクローズアップさせることになった。

 

ファシズムへの入り口となった昭和11年

 昭和11年の2月26日には、二・二六事件が起っている。ご存じ皇道派青年将校らによるクーデターで、高橋是清蔵相らが殺害されている。
 『ラヂオ公論』は、2月25日のあと、3月15日まで発行されていない。
 この事件については、わずか「東京府渋谷、中野、杉並、淀橋の四区のラジオ商で作る城西商業組合が3月1日に開催予定だった総会が、2月下旬帝都に起った不祥事件による戒厳令布告のため、当分延期されることとなった」と記しているだけだ。

 業界紙ながら昭和7年の五・一五事件に紙面を割いた当時とは、明らかに違いを感じる。原因はこのとき暗殺された犬養毅首相が元逓信大臣であったことにもあったかもしれないが、二・二六事件は書くことができない事情があったものとみるべきかもしれない。それは、事件のことを単に「不祥事」と書くにとどめていることからも類推できる。

 しかし、この事件を境に日本は急速にファシズムへと傾いて行くことになり、ますます非常時体制を強め、戦争へと向かうことになる。

誰もが慎ましく倹約生活

 向田邦子の作品『あ・うん』は、昭和4年生まれの彼女が、昭和10年前後を書いた物語りで、当時の人々の生活などが良く表れている。
 このことについて山本夏彦は『誰か「戦前」を知らないか』(中公新書)で、大筋次のように書いている。

 主人公の父は二流の製薬会社の支店長で、家賃30円の借家に住んでおり、妻は亭主の靴下を電球にかぶせて穴かがりをした。電気アイロンはまだなく、主人公は毎晩スカートを寝押しをして寝る。髪のウェーブは火鉢で鏝を熱くしてかけていた。

 当時の一般家庭より少し上のレベルだったかもしれないが、それでもつつましい生活ぶりだ。

 昭和10年頃、電化製品は家庭にも存在した。
 山本は「電化製品で戦前になかったものというとテレビだけだった。電気冷蔵庫は昭和5年に東芝が720円で売り出した」と書いている。
 もっとも正確には、なかった商品はまだたくさんあったし、逆にテレビはすでに開発済みだった。

 ところで電気冷蔵庫の価格720円というと、当時は東京郊外で中古40坪の家が一軒買えたというほどの高額だったという。高額ならまだ、電話も普及していなかった。電話の普及は昭和30年代に入ってからで、ほぼ全家庭に普及するのは昭和50年代にはいってからだ。11年当時は電報が最も早い伝達手段だった。

 二・二六事件勃発の第一報を受けた新聞記者たちは、「みな電報でたたき起こされている」と山本は書いている。