新・デジタリアンの散歩道

デジタリアンが取材したデジタルなニュースをお届けしています。

大阪・日本橋、でんでんタウン協栄会が新時代に合わせた新組織へ

戦後発足の電器店ま親睦団体が前身、電器店減少とポップカルチャー台頭する街の変化に対応

 

戦後間もない1948(昭和23)年には、大阪・日本橋地区にはラジオ店や部品店が増え始めていた。周辺のそれらを合わせた電器店40店が集まって親睦組織「南大阪電友会」が発足している。初代会長は水野辰雄氏(当時は日本無線総合会社、後の水野商店)だった。当時の業界紙によると水野氏らが、日本橋地区のラジオ店などを奔走して作り上げたと言われている。これが現在ののでんでんタウン協栄会の前身である。それから70年近く経った今、日本橋電気街は大きな変化を見せている。電気街のメイン通りから家電専門店がなくなり、昔を知る人たちからは電気街の変貌ぶりを寂しがる人たちもいるが、ポップカルチャー日本橋の新しい顔が誕生している。街の変化に伴ってでんでんタウン協栄会もまた、あらたな組織作りを目指して動き始めようとしている。

 

f:id:sozaki:20140701075851j:plain

日本橋にはアニメなどポップなカルチャーがいっぱい

かつてはほぼ電器店構成されていたでんでんタウン協栄会も、街から電器店が減り、代わってアニメやコスプレ、それにメイド喫茶店などポップカルチャー系の店舗や飲食店増えると、そうしたメンバーを加えた組織作りも必要になってきたのだ。

 

電器店もかつて主流だった家電専門店が、電気街のメイン通り日本橋筋堺筋)が姿を消した今、オーディオ専門店、照明専門店、電子部品専門店、電気工事専門店など、より専門化した分科会を設けることで、組織活動への関心をより高めてもらう工夫を図るなどの案も出ているという。

 

日本橋には、でんでんタウン協栄会のほか電器店以外の店舗を加えた日本橋筋に面した店舗だけで構成する日本橋筋商店街振興組合がある。このほかにも日本橋町づくり会社も日本橋の発展に向けた活動をしている。
でんでんタウン協栄会は前身の南大阪電友会の発足趣旨からもわかるように、電器店の集まりである。組織拡大と町の発展のためには業界、業種の枠にこだわることなく幅広くメンバーを増やしてきた。

南大阪電友会が前身

 

でんでんタウン協栄会の前身である南大阪電友会は、日本橋に限定せず今以上に広いエリアに点在する電器店をメンバーとして加えていた。
組織作りに奔走した水野辰雄氏の日本無線総合会社は、その頃、道頓堀に店を構えていた。後に日本橋筋に移転しているが、当時は周辺地域の店舗や、そこから移転した店舗のグループも数多く見られた。

 

水野氏から南大阪電友会発足の相談を持ちかけられた一人、中川章輔商会(後の中川無線電機)の中川昌蔵氏は、当時、日本橋電気街のリーダー役でもあった。。価格問題への対応など、街のルールを作ったのも中川氏だったと言われている。

中川章輔商会の中川寛、昌蔵、彰の三兄弟は、その2年前に中国から引き揚げきたところで、同社の再興に努めていたところだった。

その頃の様子を現在のでんでんタウン協栄会会長の伊東雅博正電社社長の父親で、戦後、日本橋で照明専門店正電社を創業した伊東雅男氏は生前、次のように話している。

 

日本橋は南大阪電友会発足を契機に電気の街として結束していくことになりました。その後、電化元年と言われる昭和29年、その後の3C時代を経て、東京オリンピックへと電気街は、さらに元気付いていきました」

 

家電品が家庭へ浸透するのに合わせて町は大きくなっていった。さらに次々と開発される新製品は日本橋をテストマーケットとして真っ先に展示されていた。

 

「街が発展する間にトランジスターやダイオードなどが開発されました。ソニーは小型のラジオを発売するなど、新製品も相次いで発売されてきました。メーカーはこぞって日本橋へそうした製品を持ってきました。ここで売るとお客さんが集まってくるからでした」

 

日本橋に来ると最新の製品が集まっている。しかも安く買えるといった街のイメージが口コミで広まっていった。しかし昭和40年代後半からは、オイルショックが起こり景気が悪化していくと、徐々に電気街はそれまでの勢いを失っていった。

伊東雅男氏は「それからしばらく順調に推移していた電気街・日本橋は知名度も高まっていった。40~45年頃には電気街のピークを迎えていた」と、当時を振り返っている。

 

電気屋なら日本橋やで

 

伊東氏は、22歳で中国北部から復員してきた。日本橋5丁目で商売を始める以前、まず友人とふたりで大阪・南田辺で狭い店舗を借りて、ラジオの修理を始めまていた。

近所で小さな工場を経営していた知人が中川章輔商会と取引をしていたこともあって、良く日本橋の話を聞いていたという。

 

その知人はいつも「電気屋をやるんやったらやっぱり日本橋でやんなはれや。あそこは桧舞台でっせ」と勧めてくれたという。

同じような思いで集まってきた人たちは多かった。そして自然と日本を代表する電気街が誕生するようになっていったのだ。

 

新時代に合わせた街づくり

 

時代は変わり日本橋だけが最先端のエレクトロニクスの情報発信する舞台ではなくなっていった。代わって台頭してきたのがポップカルチャー系の専門店である。若者の間では日本橋はアニメなどポップカルチャーの街である、といったイメージが定着しつつあるようだ。

 

とは言っても、ロボットや電子部品、オーディオなど日本橋にはまだまだエレクトロニクスの専門店が重要な位置を占めているのはまぎれもない事実である。
そうした新たな時代の街づくりに向けてでんでんタウン協栄会は、電器店による街づくり団体という枠を取り払って、あらゆる業界、業種による分科会形式の新組織を目指し、新しい時代に合わせた街づくり進めて行こうとしている。