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「一丁噛み」 インタビュー 蘇建源共立電子産業会長

大阪・日本橋4丁目に建つ日本最大級の売り場を持つ電子部品専門店「シリコンハウス共立」。ものづくり創造館の別名が示すように、子どもから大人までエレクトロニクスのものづくりの楽しさを教えてくれている。ここを経営するのはこの分野では、恐らく知らない人はいない電子部品販売会社共立電子産業である。創業者は蘇建源代表取締役会長である。今は社長を長男の琢邦さんに譲り、日本橋の街づくりに尽力しているが、創業時から売り場に立ち続けてたくさんの人たちにものづくり素晴らしさを教えてきた。その目は今、日本橋の街づくりに向けられている。電子工作教室、日本橋をロボットのメッカにするロボット連絡会、日本橋ストリートフェスタなど数々の街の新規事業を立ちあげてきた。そして今、新たに日本橋にトラム(新世代路面電車=LRT)を走らせる市民運動の旗振りを始めている。今年74歳になるその蘇建源さんとは一体どのような人物なのであろうか。

 

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シリコンハウス共立

毎年春分の日になると日本橋には25万人前後もの若者が集まって来る。その多くがアニメの登場人物などの衣装を身にまとったコスプレイヤーたちである。それを写真に収めようとカメラをぶら下げたコスプレファンの姿も多い。わずか半日のイベントではあるが、同規模では大阪で最も賑わい経済波及効果があるとされる「日本橋ストリートフェスタ」がそれだ。
日本橋にたくさんの人を呼び込みたい―と、これを発案したのが蘇健源さんなのである。当初こそ電気の街らしく、街の電気店主たちが最新の電気製品とともにパレードに加わっていたが、今ではコスプレ、アニメのお祭り色が濃くなっている。変化する街、日本橋にふさわしく、新しい文化が根付き始めているの様子が分かる。

日本橋は時代によって街の顔を変えてきた。
戦前、まだ日本橋が電気の街と呼ばれるようになる前の頃である。日本橋は古書店の街として知られ、古書店は東京・神田に次ぐ数を誇っていた。学生たちが下駄をならして本を探す姿は、今日本橋を席巻するオタクの姿と重なる。
ボクが日本橋を取材するために足を踏み入れた1985(昭和60)年にはまだ、メイン通りの堺筋日本橋筋)に古書店が残っていたのも、その頃の名残だ。
戦後になって日本橋はラジオ部品店などが店を出し始め、30年代には家電の街へと変貌する。コマーシャルのキャッチコピー「来て見て買って」でも知られたように、電気製品が安く買える東の秋葉原と並び称される電気の街になって行く。

蘇さんが共立電子産業を創業したのは1970(昭和44)年8月と同社のホームページには書いてある。電気の街日本橋が全盛を極めていた頃である。
大学を卒業して店を開業するまでの4年ほどの間は、まさに試行錯誤の期間であった。
大阪・天六にあった関西大学工学部で機械工学を学んだ蘇さんは、同級生らとともに就職を目指して2、3の企業を受験したが、いずれも失敗してしまった。順調に進むはずだった人生は初めて挫折する。

「1966(昭和41)年に大学を卒業したんですが、就職には失敗しました。就職難の時代でもありましが、当時は4年制大学の機械工学科と言うたら、引く手あまたやったんですわ。そやから就職できひんと思てなかったんやけど、実際は外国人(中国人)は採ってくれへんかったね」
「まあっ、考えてみたら当たり前と言えば当たり前やね。4年制大学の機械科出た奴いうたら将来は、企業のやっぱり幹部候補生ですわ。同級生の今の姿見ても、上場企業のエライさんになって定年してますわ。機械の会社というのはデカいところもあれば、町工場のようにちっちゃいところもある。旋盤工であるとかフライス盤工とかある意味職人さんですが、大学を出たからには職人では終わりたくなかったしね」

それまで人種差別なんて意識したことがなかったし、日本人は優しい国民性だと信じていたが、この時ばかりは国籍の壁が大きいことを感じざるを得なかった。
蘇さんは1941(昭和16)年、大阪市西淀川区で生まれている。60歳で奈良県生駒市へ転居するまでは、町工場などが点在する下町で暮らしていた。中国人の父、蘇山本と母の淑の間に生まれた。永く中国籍でいたが、13、14年前に帰化して日本籍になった。父親は腕のいい旋盤工だったという。


「今も西淀川区にある大福機工(現ダイフク)の下請けやったみたいで、その会社にはよう行ってたみたいや。親父は大福機工に勤めていたと言わへんかったから、多分大福機工の子会社か下請けのなんかで、行っていたんちゃうかな。腕は良かったみたいで、ええ暮らししとったわ。そんなん見てるから、大学も好きな機械に行ったし、就職もそうと決めていたわけですわ」

機械メーカーに過ぎなかった大福機工がダイフクと社名を変更し、FA、物流のシステムメーカーとして成長を果たす陰にはいち早くコンピューターシステムを取り入れたことによるところが大きいが、当時の大福機工はまだ創業して間もない頃だった。

「就職試験では、蘇やなくて日本の名前にしたら採ったるなどと言われたんですが、そんなんいらんわと思って断りましたけどね。でも、そんな具合だから就職できひんかったんです」

続く