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新・デジタリアンの散歩道

デジタリアンが取材したデジタルなニュースをお届けしています。

「一丁噛み」 インタビュー 蘇建源共立電子産業会長 第2回

日本橋の部品屋で丁稚に

 大学を出たけれど働く先がない蘇さんは、考えた挙句に「しゃあないなぁ」と決心して、結局、日本橋のパーツ・真空管屋さんに丁稚で入ことにした。当時の部品店の主流商品は真空管で、半導体はまだセレン整流器ぐらいしかなかった。シリコンダイオードはあったけど、あまり市場には出回ってなかったようだ。テレビの高圧の整流器なども真空管で整流していた時代で、それがちょうど半導体になりかけていたという。

 

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エレクトロニクスのもの作りに必要な物は何でも揃う

 整流器とかトランジスターも市場に出始めていた。
 店に就職して間もなく、こんなことを店の経営者に言っている。
 「半導体置きませんか。これから半導体になるんやし、と言うたんやけども、嫌がってましたね。結局扱わへんかった。真空管がまだ良く売れていたし、まだ早かったんかもしれへんけどね」
 市場では真空管式のカラーテレビがよう売れていた頃だった。

 その頃、部品店にはテレビの故障もたくさん持ち込まれていた。
 「正直言うて故障いうたらコンデンサのパンク(破裂)か真空管の劣化とかトランスが焼けたとかでね。と言うても結構難しいもんやから素人ではできひんけども、真空管売ってたら当時のテレビの修理ぐらいは、店主がするのを見ていたら、見よう見真似でできてたんや」
 チューナーの故障もいろいろあったようだが、接点不良が圧倒的だった。
 「その程度ならば、僕でも直せたんや」


 ある日、蘇さんは店主に「半導体売らへんのやったら辞めますよ」と、大学出立て若造が偉そうに言い捨てたのである。
 いつまでも真空管売っていられへん、といった想いが強かったようだが、向こう気の強さは今も昔も同じだ。その頃、企業に勤めた同級生の給料は2万円~3万円をもらっていた。蘇さんは「丁稚」だったから半分くらいの1万3千、4千円だった。技術を教えてもらっているから文句は言えない、といった思いもあったが、とにかく辞めたかった。
 「テレビの修理も覚えてしまったし、このまま何年も店におってもしゃあないし。1年で辞めますよと言うてるのに、手が足らんからと言うてちょっと給料上げてくれて、次に店員が入るまでおってくれ、と引き延ばされたんや」
 そんなことで1年半ぐらいは部品店で働いた。

 辞めてからは便利屋みたいに何でもやった。
 まずテレビの修理屋の手伝いを始めた。ホテルのテレビが良く接点不良起こしていたから結構仕事もあった。
 「テレビの修理いうたら本体をひっくり返して中を覗く。電気がピリピリくるし、ほこりまみれにはなるし、ゴキブリも出てきよるしなぁ。あんまり気持ちのええもんちゃうんやわ」
 それでも仕事の件数も多く、売上もそこそこあったようだった。テレビはそろそろ半導体化し始めていたので、修理も難しなりかかっていた。
 ある日屋根に登ってアンテナ立てていると、雨降ってきてすべって落ちそうになったことがある。
 「それをきっかけに将来を真剣に考えるようになった。いつまでも修理ばっかりしたってあかん。こんなん続けていたいつかは屋根から落ちて死ぬ。なんかせなぁあかんわ」

共立電子産業誕生

 日本橋電気街で電気製品を求める客の中には、一般の消費者のほかにも西日本各地からやって来る部品店や電器店の姿もたくさん見られた。そんな人たちに重宝されていたのが、製品としての利用価値がなくなったジャンク品を販売する店だった。
 日本橋でジャンク品を販売している電子機材は新進気鋭で売上を伸ばしていた。下請けの機械職人だった蘇さんの父親山本さんは、その頃、日本橋5丁目にビルを建ててるなど羽振りが良かったようだ。今はマクドナルド日本橋店が営業しているが、当時はそこに電子機材が店を構えていた。
 「電子機材は父の知り合いがやってたんですが、人手がほしいと僕に『蘇君は電気のこともも良く知ってるから手伝ってくれへんか』と声を掛けられて、そこで働くことにしたんですわ」


 と言っても休みの日には他の仕事をするといった二股で、保険もなくアルバイトのような社員だった。


 それでもそこでは念願の半導体を勉強することができた。測定器やらいろんな面白い機材が入ってきて、後に独立して部品店を営業するための下積みになった時期でもあった。

 相変わらず日本橋で仕事をしながら日を送っていると今度はスナックの手伝いをすることになった。まったく畑違いではあったが、ここでもの作り面白さを体験する。
スナックは父親が青木さんという人に店を任せていた。そこが手が足らなくなったというのでそこで働くことになったのである。

 青木さんはもの作りが好きな人で、知り合いの大阪大学の田中さんという先生がアイデア出した、今でいうシャチハタネームのようなはんこを作ろうとしていた。

 何にでも首を突っ込み興味を示す一丁噛みの精神は蘇さんの原動力になってきたが、この頃すでにすでにそれは見られたのである。
 青木さんはスナックをやりながら「田中先生が特許使わしてくれるから、建ちゃん一緒に作らへんか」と声をかけてきた。断る理由もなく、スナックが始まる前に吹田に移転した大阪大学の田中先生の研究室を使わせてもらってはんこ作りを始めた。プラスチックを練って、ふわふわした連泡性のプラスチックにして、それにインクをしみ込ませてはんこ作った。

 シャープの第一号商品はシャープペンシルだったが、この時はまだ共立電子産業の創業していないが、はんこは同社のもの作り第一号品なのかもしれない。
 しかしはんこ作りをしている間に、日本橋のジャンク店が倒産してしまった。給料も払らってもらえない。蘇さんは店にあった品物を全部買い上げるという居抜きで借りてジャンク品の販売を始めた。
 「その年には結婚することになっていたんですが、嫁さんの持参金と僕が貯めていたものを合わせて始めたのが1970年8月1日ですわ」

 26歳の時であった。共立電子産業の誕生である。現社長の琢邦さんは、それから一週間後の8月9日に生まれている。店を開ける準備やオープンでドタバタしていた時の出産であった。