新・デジタリアンの散歩道

デジタリアンが取材したデジタルなニュースをお届けしています。

インタビュー 共立電子産業代表取締役会長 蘇建源 第5回 「転機」

創業以来ジャンク品の販売で業績を伸ばしてきた共立電子産業に、さらなる発展をもたらすのは半導体やパソコンの出現だった。創業者で代表取締役会長の蘇建源氏は「正規の半導体を扱うようになるとジャンクはあまり触らない方がいいんですよ。ICなんかは信頼性そのものなんですから、半導体のジャンク品なんていうのは絶対にアカン」と、方向転換の背景に半導体の登場を指摘している。

f:id:sozaki:20150914065902j:plain

NEC TK80

 同社のジャンク品は大阪市内や堺市内などの解体屋からジャンク品を仕入れて販売していた。

 「解体屋さんは野田阪神にも2軒ほどあった。堺の浅香山にもあったし、あちこちにあって、トランスや電線を良く買っていた」

 電線の中でもたとえば高周波用電線は芯線の上に絶縁体があって網状に包まれている。さらに皮膜があって複雑な構造である。それだけに解体屋も処置に困るが、共立電子産業はそれを安く買って売っていた。

 「付加価値を付けて売ります。解体屋さんには、あれは儲かりましたよと報告してあげて、次には少し高く買ってあげるんですよ。同業者には相場を上げよったと言って嫌われたけれど、解体屋のおっちゃんは喜んでくれて、ウチのために商品を取り置きしてくれるようになりました」

 そんなことで良質のジャンク品を安定して仕入れられるようになった。それが同社の売上げを伸すことになる。ところがこうした解体屋からの直接の買い取りは間もなくやめてしまう。

 ジャンク商品の中には価値があるものもあれば、ないものもたくさんあり、リスクが伴っていたのも事実だ。「第三者のフィルターをかけて購入したほうが得」と、蘇氏は判断したのである。

 しかし時折メーカーから直接にジャンク品が出ることがあった。組み立て現場から、これは使えないとか要らないといって出てくるものが、出回ることがあった。ただそうした商品は安定して入るわけでもなく、汎用性のない特殊な小売できないものもあったするわけで、商売には適さなかった。

こうしたジャンク品のニーズの多くは「人々の向学心に支えられていた」(蘇氏)が、しかしそれも半導体の出現で変化を見せるようになる。「今まで理屈を学ばずに経験上の感覚で真空管などを触っていた人には、新しい半導体は触れなくなってしまった」(蘇氏)からだ。半導体を学ばなかった部品屋さんも半導体時代になると少しずつ消えていった。

 

転機となったTK80の出現

共立電子産業は1976年8月からTK80を販売している。これはこの年にNECが発売したマイクロコンピュータトレーニングキットである。それは「LEDが数字を示す程度のもので、何にも出来なかった」(蘇氏)のだが、その発売はエレクトロニクスファンには衝撃的で、一気にマイコンブームが起こった。同社でも社員に商品勉強を求めたが、蘇氏も自分でTK80を購入してCPUの概念を学んだという。

 「CPUという半導体が命令したら、ものを考えてくれる。単純にトランジスターで増幅したとかいうことじゃないんや。
思考する半導体は絶対に人間の代わりに仕事してくれるやんか。せやから絶対売れると自信あったんや」

 そんなことで共立電子産業は「TK80は大阪で一番たくさん売った。日本中で最も多く売ったん違うかなぁ」と話す。


 TK80を買って勉強することでCPUの概念を知り、誰よりも早くTK80を販売に乗り出している。もちろんそれまでにロジックICを店で扱うなどしてICの概念を理解していた蘇氏であるから、恐れずに新たなTK80にも手を出せたのである。

 「それでプログラムを作ったら制御に使えることが直ぐに判った。制御屋さんもそれが判ったんでしょうね。たくさんうちに買いに来ていました」

 TK80は単なるトレーニングキットであったが、同社にとって大きな転機をもたらしたことも確かだった。それが契機となってメモリー、CPU、マイコン、そしてパソコンまで、他に先駆けて販売を始めている。競合相手がまだいなかったから高く売れた。「うちはあの当時儲けたんやな」と蘇氏は笑う。

 後に上新電機などが徐々に売り始めると状況は少しずつ変って行くが、いち早くこうした商品の販売をするなど先進性が、同社をジャンク店から脱皮させることになる。