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新・デジタリアンの散歩道

デジタリアンが取材したデジタルなニュースをお届けしています。

インタビュー 蘇建源共立電子産業会長 第4回

世界のローランドも日本橋から育った

◆ジャンク専門店「デジット」は80年代半ば、日本橋5丁目のメイン通りである堺筋から2筋東へ入った所に店舗があった。

この頃の常連客のひとりに、後に世界の電子楽器メーカーとして名を馳せることになるローランドの創業者梯郁太郎さんがいた。大阪市阿倍野区で経営していた電器店「カケハシ無線」時代から日本橋にはしばしば足を運んで、修理部品などを調達していたが、日本橋にくると必ずと言っていいほど覗いていたのがデジットだったのである。


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ローランドの創業者、梯郁太郎さん


ジャンク専門店としてデジットが誕生した頃に、蘇さんは売り場で梯さんと顔を合わすことになる。以来、親交を深めていくのだが、その頃はまさか世界のローランドを創る逸在だとは知る由もなかった。

 梯さんは町の電器店から電子楽器を製造するエース電子工業を1960年に設立して「Ace Tone(エーストーン)」のブランドで電子オルガンなどを世に送り出していた。共立電子産業が誕生する10年前である。梯さんは後に同社を退職してローランドを作るが、その原点は日本橋にあった、と言ってもいいだろう。

 「梯さんに頼まれて店にエーストーンの電子オルガンを置いて売ったこともありました。日本橋ではうちと岡本無線電機さんが販売をしたのですが、何分部品屋ですから、さほど売れることもなく扱いは終わりましたが」

 その頃、梯さんのお目当てはICなど電子部品であった。

 共立電子産業は、まだ会社を設立して間もなかったが、新しいものへと目が行く性質は今も昔も変わりがない。ICをいち早く売り場に並べたのも、そんな蘇さんのイッチョ噛みの精神が発揮された現れであった。梯さんのような客はまだ決して多くはなかったが、少しずつ増えて行っていた。
 蘇さんは、DTL(ダイオードトランジスターロジック)とかTTL(トランジスタトランジスターロジック)といったロジックIC(小型集積回路)を仕入れて売り出していた。

 「モトローラ製などを仕入れてきて店に並べるんやけど、なかなか売れへんのやなぁ。それはそうですわ、今まで真空管を触っていた人にとって、石(IC)なんかはもうお手上げなんですから。そんな状態やから思うように売れへんかったけど、辛抱強くコツコツ売り続けてたんですわ。そのお陰ですかね・・・後にマイコンが出た時には、CPU(中央処理装置)やメモリーなど電子回路も、皆さん真っ先にうちの店に買いにきてくれましたから」

 マイクロコンピュータトレーニングキットとして使われたNEC製のマイクロプロセッサTK80は1976年に発売されたが、その前からマイコンファンの間では話題になっていた。トレーニングキットはデータの入出力が欠かせなく、そのためにはシリアル通信(データを送受信するための通信方式)機能を備えた端末が必要だった。ところがTK80は、それを必要としなかった点が注目されたのだ。

 高価な端末装置を必要としないことが当時のアマチュアの間で話題になり、本来の意図とは異なり相当数がコンピュータマニアに購入された。これがマイコンブームへとつながっていく。

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共立電子産業の本社

 日本橋で一番早く、その年の8月にTK80を販売したのは蘇さんの共立電子産業だった。扱いが早かっただけではなく、最も多く販売したのも共立電子産業だった。それも早くから手がけてきた電子部品のていねいな販売への取り組みがあったからだった。
「1日に10台も20台、月何百台もTK80を売りましたよ。日本橋上新電機やニノミヤといった大手家電量販店でも、うちのシリコンハウスの販売台数に追いつかなかった」

 このTK80によって共立電子産業の存在が大きくクローズアップされることになる。1985年頃にはマイコン・コンピューターを販売するコムスポットという新しい店舗も作っている。ジャンク、半導体マイコンといった事業の柱が出来上がったのである。

 世界初のパソコンとされているコモドール社のPET2001を、77年にこのコムスポットで販売を始めている。1台約30万円もした時代である。

 「ある年の年末近くの話しです。国内の代理店がPET2001の扱いをやめると言ってきた。良く売れているのに、とんでもない話しです。でも仕方がなく、やめるのを春先まで延期してくれと頼んで、代理店に残っている商品数百台を仕入れたんです。それをソフトカセットテープを付けて販売したところ、売れに売れてよう儲けましたわ」

 この頃から日本橋は主力商品は家電からパソコンの時代へと入って行く。大手の家電量販店が販売を始めるまでには、まだ少し時間があった。

 共立電子産業がコモドール社のPET2001を販売すると、同じ電子部品販売会社の東亜無線電機はタンディラジオシャック社のパソコンTRSシリーズの代理店を始めて、やはり販売を伸ばしていった。
 その頃、アップル社のアップルコンピューターは国内では東レが代理店をしていたが、日本橋ではまだ販売するところがなかった。後に共立電子産業は東レと契約を結んで「Macintosh(マッキントッシュ)」を販売するようになる。

 創業当初、友だちに店を手伝ってほしいと引っ張りこんで2人で始めた共立電子産業は、TK80を販売し始めた頃には社員数はまだ5、6人だったが、PET2001を扱うようになると12、3人にまで増えていた。「その頃は就職難なこもあって、知り合いを入れて、パソコンなど新しい商品をお互いに勉強しながら販売しました」

 売上も伸ばしていた。当時、売上は年間15、6億円にもなっていた。商品勉強のために社員をシリコンバレーへ派遣するなど勢いづいていた頃である。